日本人2人目となるNBA(National Basketball Association)選手として、ご活躍されている渡邊雄太選手。現在、NBAでは6年目のシーズンを迎え「メンフィス・グリズリーズ」に所属されています。
2023年8月25日より開催されたFIBAバスケットボールワールドカップ2023に出場し、唯一のNBAプレイヤーとして日本代表を牽引し、48年ぶりの自力でのオリンピック出場に大きく貢献した日本を代表するバスケットボール選手です。
引用元:NBA Rakuten
今回は、渡邊雄太選手の子供の頃から思い描いていた「NBA選手になる」という夢が、現実になるまでの伝説エピソードをまとめさせて頂きました。
是非、最後までお楽しみ下さい。
- 画像付き早見表で若い頃の伝説エピソードを振り返る!
- 渡邊雄太選手の経歴と要チェックポイントを調べてみました!
- 渡邊雄太選手の伝説エピソード12選!を画像付きでご紹介!
- 伝説エピソード① 幼少期 母に連れられ練習を見学する日々。2歳で見様見真似の綺麗なシュートフォームを身に付けていた!
- 伝説エピソード② 小学1年生 自分の意志で母が指導するバスケチームに入団!本格的にバスケットボールを始める!
- 伝説エピソード③ 小学2年生 伝説の始まり!「NBAの選手になりたい!」と将来の目標を決め、父との猛特訓の日々が始まる!
- 伝説エピソード④ 小学高学年 練習すればするほど強くなるバスケットに楽しみを感じていた!
- 伝説エピソード⑤ 中学時代 成長痛に悩まされ、苦悩の日々。渡邊選手を見守り続けた1人目の恩師・平田コーチとの出会い。
- 伝説エピソード⑥ 高校時代 当時、無名の渡邊選手の才能をいち早く見抜いた2人目の恩師・色摩監督との出会い。
- 伝説エピソード⑦ 高校時代 才能が開花!チームを牽引し、ウィンターカップで2度の準優勝!当時最年少で日本代表選手にも選出される!
- 伝説エピソード⑧ 高校時代 「アメリカの大学へ進学or日本の大学」NBA選手になる為、大きな選択に迫られる!
- 伝説エピソード⑨ 大学時代 アメリカでは無名な渡邊選手。フレップスクールに通いながら実力を発揮し、NCAA・D1のチームから複数のオファーを獲得。
- 伝説エピソード⑩ 大学時代 Ⅾ1チーム:ジョージ・ワシントン大学へ進学。バスケと学業で努力の日々を送る。
- 伝説エピソード⑪ 大学時代 ルーキーシーズンから活躍し、最終シーズンでは絶対的エースの存在に!
- 伝説エピソード⑫ 大学卒業後、サマーリーグに参加し、メンフィス・グリズリーズから2WAY契約を勝ち取る!その後、念願のNBA試合出場を果たし、夢を叶える!
- FIBAバスケットボールワールドカップ2023に日本代表選手として出場!AKATSUKI JAPANのエースとしてチームを牽引した!
- まとめ
画像付き早見表で若い頃の伝説エピソードを振り返る!
渡邊雄太選手の若い頃のエピソードを画像付きの早見表にしてみました!掲載部分へ移動できますので、ご活用ください!
渡邊雄太選手の経歴と要チェックポイントを調べてみました!
エピソード編に入る前に、渡邊雄太選手の経歴と要チェックポイントを調べてみました!
渡邊雄太選手の学生時代からの現在までの経歴とは?
渡邊雄太さんは、幼少期からバスケットボールに触れる生活を送り、小学生の頃から「NBA選手になりたい!」という大きな夢に向かって日々、努力する子供時代を過ごします。
渡邊選手の努力が実を結び、才能が開花したのは高校生の頃から。尽誠学園高校へ進学した渡邊選手はチームのエースとして活躍し、チームを2年連続ウインターカップ準優勝へと導きました。
「NBA選手になりたい!」という「夢」を「目標」に変える為、高校卒業後はアメリカへ留学。
人並ならぬ努力を重ね、アメリカの大学でもチームの主力選手として活躍。
大学卒業後にサマーリーグに挑戦し、その実力を認められた渡邊選手は、ついにNBAの舞台へと駆け上がりました。
子供の頃から抱いていた「夢」に向かって挑み続けた渡邊選手!
めちゃくちゃカッコいいですね!
渡邊雄太選手の要チェックポイントを調べてみました!
渡邊雄太選手は、1994年10月13日生まれで、香川県木田郡三木町のご出身。渡邊家の長男として誕生しました。
渡邊選手のご家族は、元日本リーグ「熊谷組」のバスケットボール選手の父・英幸さんと「ジャクソン化粧品」に所属し、元日本代表のキャプテンも務めた母・久美さん(旧姓・久保田)、姉・夕貴さんもバスケットボール日本リーグWリーグで、アイシン・エィ・ダブリュに所属していた、バスケットボール一家です。
渡邊選手も乳児期の頃から、父母が所属するクラブチームへ一緒について行き、楽しそうにボールを転がして遊んでいたそうです。
ご両親は元バスケットボール選手で、幼い頃からボールに触れる生活を送っていた渡邊選手!まさにバスケットボールのサラブレッドだったんですね!
渡邊雄太選手は日本人で2人目となるNBAプレイヤーです。
渡邊選手はアメリカの大学卒業後、ブルックリン・ネッツの一員としてサマーリーグに参加し、その活躍が認められ、メンフィス・グリズリーズとのツーウェイ契約を結びます。
2018-2019シーズン開幕後の5試合目。フェニックス・サンズ戦に出場し、日本人2人目のNBAプレイヤーとなりました。
現在では6年目のシーズンを迎え、NBAで活躍し続けていますね!
まさにバスケットボールをする日本人選手たちの憧れとなっています!
渡邊選手は長年、日本代表チームの主力選手としてご活躍されていて、チームに欠かせないムードメーカーになっています。
昨年開催されたFIBAバスケットボールワールドカップ2023の試合でも、チームメイトだけでなく、観客を巻き込んで、会場中を日本一色のムードにするほどのスター性を持ち合わせ、フィンランド戦・ベネゼエラ戦での奇跡の逆転劇を演出しました。
ワールドカップでは、チームメイトへの声掛けや観客を盛り上げたり、まさにバスケット界の「大谷翔平選手」のような圧倒的な存在感で、日本全体を盛り上げていました!
渡邊選手は、元フジテレビアナウンサーの久慈暁子さんとご結婚されています。
渡邊選手と久慈暁子さんとの出会いは、2019年7月30日のめざましテレビの取材だったそうで、交際に発展したのは東京オリンピック終了後と言われています。
その後も遠距離恋愛からの交際期間を経て2022年5月26日入籍されました。
渡邊選手のインスタグラムには、お二人の仲睦まじい様子が投稿されています!
久慈さんは渡邊選手のどういったところに惹かれたのでしょうか?
優しい人柄?格好いい姿?素敵な魅力がいっぱいの渡邊選手ですから色々なところに惹かれたのではないでしょうか?
渡邊雄太選手の伝説エピソード12選!を画像付きでご紹介!
それでは渡邊雄太選手の若い頃の伝説エピソードを画像付きで、ご紹介させて頂きます!
伝説エピソード① 幼少期 母に連れられ練習を見学する日々。2歳で見様見真似の綺麗なシュートフォームを身に付けていた!
渡邊雄太選手の幼少期時代は、ごく平均的な身長・体重。性格はとにかく人見知りで、泣き虫な子だったそうで、父親の英幸さんにさえ、1歳を超えるまで近寄らず、母親の久美さんが雄太選手のもとを離れるだけで大泣きだったそうです。
強靭なNBA選手たちと渡り合っている雄太選手の姿だけを見ていると意外なエピソードです。これからたくさんの経験をして、強く大きく成長されていくんですね!
まだ人見知りで泣き虫な雄太少年でしたが、2歳児の頃から自宅に設置していた、小さなバスケットボールリングに向かって、シュートを放っていたそうです。
その姿は聞き手の左脇がしっかり締まっていて、綺麗なフォームだったそうで、父・英幸さんもびっくりしていた。
まだ歩き始めたくらいの時期なのにスゴすぎる!
父・英幸さんは当時を振り返り、「特にシュートを教えたことはなかったので、ああ、子どもって親の姿をみているんだな」と思ったそうです。
またその時「将来、バスケをやってくれたらいいなぁと思いましたね」と語っていました。
伝説エピソード② 小学1年生 自分の意志で母が指導するバスケチームに入団!本格的にバスケットボールを始める!
幼少期からバスケットボールに触れ合う生活をしていた渡邊雄太選手ですが、競技として本格的に始めたのは小学校に入学してからになります。
母・久美さんの週に3回の練習に、いつも一緒に来ていた雄太少年でしたが、まだ幼いため、練習には参加できませんでしたが、小学校に上がり、自らの意志で「ボクもやりたい」と久美さんに伝えたそうです。
その後、久美さんが指導するスポーツ少年団「三木スポーツ少年団」に入団して、雄太選手のバスケット人生がスタートします。
伝説エピソード③ 小学2年生 伝説の始まり!「NBAの選手になりたい!」と将来の目標を決め、父との猛特訓の日々が始まる!
渡邊雄太選手がNBAを目指すきっかけになったのは、小学2年生の頃だそうです。
当時、父・英幸さんがNBAの試合をテレビ中継で観戦していたそうで、雄太少年が「何を見ているんだろ」と何気なく、父の傍に座り観たのがロサンゼルス・レイカーズの試合。
その試合中継を見て雄太少年は「こんなすごい世界があるのか!」と衝撃を受けたそうです。
中でもコービー・ブライアントのプレーに釘付けになり、自身も「将来、NBA選手になりたい」と両親に伝えたそうです。
当時の渡邊選手にとって、NBAの舞台はとても魅力的で衝撃的な光景だったのだと思います!
そして、翌日から父との猛特訓の日々が始まります。
特訓は毎日、朝の5時半に起床。近くの小学校で毎朝6時から1時間の早朝練習を行っていました。
練習内容は小学校の校庭でランニングやドリブル。電柱に向かってのシュートといった基礎練習を繰り返し、父との1対1を挑み続け、雨の日以外は毎日、体力と基礎技術を身に付ける練習を続けていたそうです。
渡邊雄太選手は、小学生の頃から練習を休んだことがなく、将来の夢の為に日々、努力を欠かさなかったそうです。
猛特訓エピソードとして、中学生時代は1日1,000本インのシューティング練習を行っていたそうです。
当然ですが1,000本シュートを放って、全て入るわけではないのでそれ以上の本数を放ち続けなくてはなりません。現に雄太少年も1日、1,300本は打っていたようです。
4時間ぐらいかかる練習で、本当にしんどい練習だったそうですが、雄太少年は将来の目標の為、日々努力を続けて行きました。
少年時代から続けた1日1日の努力が、将来日本人2人目のNBA選手という偉業を成し遂げる結果に繋がったんですね。夢を追い続ける姿勢、毎日努力をし続ける心の強さは本当に素晴らしいです。
伝説エピソード④ 小学高学年 練習すればするほど強くなるバスケットに楽しみを感じていた!
渡邊雄太選手は、本格的に試合に出始めたのは小学4年生以降になってからで、「練習はやればやれるだけ強くなる」「バスケットボールが楽しい」と感じていたそうで、練習は休んだことはなく、将来の夢のために日々努力を欠かさなかったそうです。
日々努力をし続けた雄太少年は、小学6年生の頃にはチームのエースとして成長。県大会優勝へと導きます。
その後、小学校卒業を迎えた渡邊選手は、10年後の自分へ向けて送ったタイムカプセルには、夢の実現を信じて止まない、熱い想いが込められていました。
どんどん強くなるバスケットを心から楽しんでいた渡邊選手!将来、NBAでプレーする自分の姿も想像し、心躍らせていたのではないでしょうか?
伝説エピソード⑤ 中学時代 成長痛に悩まされ、苦悩の日々。渡邊選手を見守り続けた1人目の恩師・平田コーチとの出会い。
渡邊雄太選手の中学校進学は、地元の三木中学校ではなく、父・英幸さんの母校で外部コーチ・平田久幸さんも指導に当たっていた隣町の牟礼中学校へと進学していきます。
ここで出会うことになる1人目の恩師・平田コーチが将来、NBAで活躍することになる渡邊雄太選手に大きな影響をあたえることになります。
中学校へ進学した渡邊選手でしたが、急激に身長が伸び、激しい成長痛に悩まされて、思うようにプレーが出来なくなってしまいました。
さらに自分は痛みで思うようなプレーが出来ない中、周りの選手はどんどん練習をして上達していく、この状況に渡邊選手は「焦り」を感じていたそうです。
これはつらいですよね!当時の渡邊選手も、とても悔しい思いをされていたのではないでしょうか?
しかし、指導に当たっていた平田コーチは、渡邊選手の焦りを理解しつつも、厳しい練習への参加を認めませんでした。
「お前の未来はもっと先にあるはず。だから今のこの大会に出場できなかったことを悲観する必要はない」と渡邊選手に伝えたそうです。
平田コーチの指導方針もあり、思うように練習が出来なかった中学時代の渡邊雄太選手は、無名選手として日々を過ごすことになりましが、渡邊選手のご両親は平田コーチの行動について、とても感謝していています。
また、渡邊雄太選手自身も「現在、好きなだけ練習に打ち込める身体でいられる大きな理由」と語っていて、平田コーチに感謝しているようです。
平田コーチは選手の未来を考えて行動できるとても優秀な指導者だそうです。当時の平田コーチの判断が違っていて、渡邊雄太選手に無理をさせていたら、NBA選手になるという目標が、どこかで諦めることになっていたかもしれませんね。
伝説エピソード⑥ 高校時代 当時、無名の渡邊選手の才能をいち早く見抜いた2人目の恩師・色摩監督との出会い。
中学時代は成長痛に悩まされ、思うような活躍ができなかった渡邊選手は、高校バスケの強豪校からのオファーはほとんどなかった為、母・久美さんの勧めで地元・尽誠学園高等学校へと進学していきます。
尽誠学園は、高校バスケの全国強豪校として有名ですが、当時はまだバスケットボールに力を入れ始めたばかりで無名な高校だったようです。
進学した尽誠学園で渡邊雄太選手は2人目の恩師となる色摩拓也監督と出会います。
色摩監督は渡邊選手の才能にいち早く気付き、声をかけ、身長2m近い選手は通常、ポストプレーを中心に指導し、ゴール下での起用をする指導者が多い中、色摩監督は渡邊選手のしなやかさ・フットワーク・ボールハンドリングの技術の高さに着目し、型にはめずオールラウンダーとして指導していきます。
渡邊選手の現在のプレースタイルも、色摩監督の指導が大きな影響を与えているようです。
近代のバスケットでは、大型の選手でも全てのポジションをこなす選手が増えてきましたが、当時はまだ、ゴール下での起用が主流になっていましたので、渡邊選手の指導と起用法は、色摩監督がいかに時代の先をよく見ていたかが伺えますね。
成長痛が収まった渡邊選手は、思うように練習に打ち込めるようになり、どんどん実力を伸ばしていきます。
伝説エピソード⑦ 高校時代 才能が開花!チームを牽引し、ウィンターカップで2度の準優勝!当時最年少で日本代表選手にも選出される!
渡邊雄太選手の才能が発揮されたのは高校2年生、2011年のウインターカップです。
当時、尽誠学園はノーシード校として出場し、渡邊選手もまだ無名選手でしたが、全国区の強豪校・福岡第一・洛南・沼津中央を次々と倒して決勝の舞台に駒を進めました。
決勝の相手は現在Bリーグでご活躍しているベンドラメ礼生選手率いる延岡学園。試合は惜しくも敗れてしまいますが、この大会をきっかけに渡邊選手の名は全国に轟くことになりました。
さらにその活躍が認められ、当時最年少でウィリアム・ジョーンズ・カップの日本代表選手として出場されました。
ついにその実力が認められた渡邊選手!長年の努力が実を結んだ瞬間ですね!
高校3年生、2012年のウインターカップでは、今度こそ優勝を目指し勝ち抜き続け、今大会も決勝の相手は宿敵・延岡学園。渡邊選手はポイントガードもこなせるオールラウンダーとして出場し、チームを牽引する活躍をしますが66-68と惜しくも敗れてしましました。
高校生最後の大会で悔しい結果になってしまいましたが、2年連続ウィンターカップ準優勝という輝かしい結果を残しました。
伝説エピソード⑧ 高校時代 「アメリカの大学へ進学or日本の大学」NBA選手になる為、大きな選択に迫られる!
渡邊雄太選手は高校卒業後の進路について大きな選択を迫られることになります。
それは日本の大学に進学するかアメリカの大学へ進学するか。
日本の大学に進学を選択すれば、結果を出している渡邊選手は大切に育成され、プレー時間もしっかりと確保できます。
一方、アメリカの大学を選択すれば、日本での功績とは無関係なので、アメリカで実力を示さなければコートにすら立つことはかないません。
当時の渡邊選手は日本代表選手として海外の選手と戦った経験から、将来の夢「NBA選手になる」為に海外志向を強めていましたが、周囲には反対意見も多く、アメリカへの挑戦はまだ早いのではないかと悩んでいました。
バスケット人生を掛けた大きな決断に迫られた渡邊選手。
とても悩み、苦しんだのではないでしょうか?
そんな中、日本人初のNBAプレイヤーとして活躍した田臥勇太選手が、渡邊選手のアメリカ留学に対し、「アメリカに行く決断は間違っていません。絶対に行った方がいいです」と力強く背中を押してくれたそうです。
否定的な意見が多い中、田臥選手が背中を押してくれたことは、渡邊選手もとても嬉しかったのではないでしょうか?
この言葉を聞いてからの渡邊選手は、周囲のネガティブな言葉は全く気にならなくなり、アメリカの大学へと進学していきます。
伝説エピソード⑨ 大学時代 アメリカでは無名な渡邊選手。フレップスクールに通いながら実力を発揮し、NCAA・D1のチームから複数のオファーを獲得。
高校卒業して単身アメリカへと渡った渡邊雄太選手ですが、世界大会ではまだ無名選手の為、アメリカの大学からのオファーはありませんでした。
NCAA・D1(ディビジョン・ワン)の大学への進学を目指し、渡米後はフレップスクール(大学に行くために通う予備校のような場所)のセント・トーマス・モア高校に入学します。
フレップスクールでは、語学を学びつつチームの一員として活躍。ナショナルプレップチャンピオンシップでは準優勝に大きく貢献し、オールファーストチームに選出されました。
渡邊選手は外国人選手にも全く引けを取らない体格で、持ち前の力を存分に発揮していたそうです!
その後、シーズン中の活躍が認められ、NCAA・D1のチームから複数のオファーを頂いた中から、ジョージ・ワシントン大学を選択し進学。
当初、目標にしていたNCAA・D1の大学への進学を勝ち取りました。
伝説エピソード⑩ 大学時代 Ⅾ1チーム:ジョージ・ワシントン大学へ進学。バスケと学業で努力の日々を送る。
ジョージ・ワシントン大学に入学した渡邊雄太選手ですが、学業で大きな壁が待ち構えていました。
というのも、ジョージ・ワシントン大学は、非常に学力が高い学校で、NCAAは学業にも力を入れている為、一定の学力を収めなければ練習にすら参加ができません。
レベルの高い英語の授業を受け、英語でテストを答えなくてはならない。
日本人の渡邊選手にとって大きな試練となりましたが、常に英語辞書を持ち歩き、持ち前の努力で学業でも好成績を収めていきました。
文字も言葉も日本にいた頃とはまるで違う環境の中、渡邊選手はバスケ以外にもたくさんの努力をされていたんですね。
一方、バスケットボールはD1のルーキーシーズンから出場し、活躍していきます。
代表的な活躍として、ダイヤモンドヘッド・クラシックに出場したジョージ・ワシントン大学は決勝戦まで勝ち進み、格上の相手に苦戦する中、渡邊選手の3Pシュートで逆転し、優勝します。
渡邊選手は高校時代、ウィンターカップで決勝戦で2度優勝を逃していることから、この大会での優勝は今後の大きな自信に繋がったそうです。
アメリカに渡ってからも、環境に適応し、努力を続けた渡邊選手は、バスケットボールの本場でもその実力を十分に示されていますね!
伝説エピソード⑪ 大学時代 ルーキーシーズンから活躍し、最終シーズンでは絶対的エースの存在に!
渡邊雄太選手は2年生・3年生シーズンと様々な苦戦を強いられながらも成長し、4年生シーズンにはチームの絶対的エースとして活躍されます。
チームの3人のキャプテンのうち1人に就任し、得点・リバウンド・ブロック数はチーム内1位と成長を重ねていた渡邊選手ですが、最終戦で怪我をしてしまい、NCAAトーナメントには出場することができなかったそうです。
しかし、ジョージ・ワシントン大学が称するA10(アトランティック・10)では最優秀守備選手賞を受賞し、大学のキャリアを締めくくりました。
大学を卒業するころにNCAA D1のチームのエースとして活躍するまでに成長した渡邊選手!
ついにNBAへの挑戦も最終章を迎えます!
伝説エピソード⑫ 大学卒業後、サマーリーグに参加し、メンフィス・グリズリーズから2WAY契約を勝ち取る!その後、念願のNBA試合出場を果たし、夢を叶える!
大学卒業した渡邊雄太選手は、NBAグローバルキャンプやワークアウトに参加してドラフト指名を待ちましたが、指名はなかったそうです。
その後、NBAサマーリーグにブルックリン・ネッツの一員として参加。1試合平均24分出場・9.4得点・4.2リバウンド・1.6ブロックの活躍を見せ、NBAチーム、メンフィス・グリズリーズから2WAY契約のオファーが届き、渡邊選手は契約を結びました。
そして2018-2019シーズン開幕後の10月27日、チーム5試合目のフェニックス・サンズ戦で初めてNBA選手登録されて、試合に出場。
ついに幼い頃からの夢を叶え、2人目の日本人NBAプレイヤーとなりました。
ついに夢を叶えた渡邊選手!日本人2人目のNBAプレイヤーとして、子どもの頃より思い描いていたNBAの舞台に立つことが出来ました!
その後の渡邊選手は活躍を続け、現在もNBAプレイヤーとして活躍し、たくさんの人に夢を与え続けています。
FIBAバスケットボールワールドカップ2023に日本代表選手として出場!AKATSUKI JAPANのエースとしてチームを牽引した!
渡邊雄太選手は、東京オリンピックなど、数々の国際大会に日本代表選手としてご活躍されていますが、2023年8月25日より開催されたFIBAバスケットボールワールドカップ2023では、エースとしてAKATSUKI JAPAN(日本代表チーム)を牽引していました。
渡邊選手は、全試合を先発出場し、1試合平均出場時間はチーム最長の35分、平均14.8得点6.2リバウンド1アシスト1.8ブロックの活躍。48年ぶり自力でのオリンピック出場へ導き、日本中が歓喜に包まれました。
2024年パリオリンピック出場を決めたAKATSUKI JAPANの皆さん!
おめでとうございます!!
渡邊選手はAKATSUKI JAPANの「大黒柱」「ムードメーカー」として、プレーだけでなく、メンタル面でもチームを鼓舞し、会場を盛り上げ、チームの先頭に立って試合に臨んでいました。
渡邊選手の存在がAKATSUKI JAPANをパリオリンピックに導いたと言っても過言ではないと思います。
AKATSUKI JAPANの皆さんの活躍で、日本ではバスケットブームが巻き起こっています!本当に凄いことを成し遂げ、日本中に喜びと元気を与えてくれたことが現れていますね!
まとめ
今回は、【画像43枚】渡邊雄太選手の若い頃の伝説エピソード12選!子供の頃からの夢はNBA選手!幼少期や学生時代の逸話を徹底解説!と題しましてお届けさせて頂きました。
渡邊雄太選手は、幼い頃から両親がバスケットボールをする姿を見て育ち、小学2年生の頃に憧れた夢を追い続け、努力に努力を重ね、夢を実現させていることがわかりました。
現在もNBA選手として、日本代表選手としてバスケットボールの第一線で戦い続けている渡邊雄太選手が今後もますますご活躍されることを期待しています。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。