KING CRIMSON Official Website (JAPAN) - キング・クリムゾン 日本公式サイト

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キング・クリムゾン バイオグラフィ

1960年頃

ロバート・フリップ、バンドを始める

ロバート・フリップ、元々は左利き。クリスマス・プレゼントでもらったギターが右利き用だったため、右利きに矯正。クラシック・ギターを学び、1960年ごろ最初のバンドザ・レイヴァンズを結成。メンバーには学友だったゴードン・ハスケルも在籍。バンドはその後、リーグ・オブ・ジェントルメンに改名。

1964年

セミプロ・ギタリスト、家業を継ぐため大学に進学

セミプロ・ギタリストとして活動を展開していたが、不動産鑑定士の資格を取得するため大学に進学。しかし、サイケデリック・ムーヴメント勃発で多様化していくロック・ミュージックに影響され再び音楽活動に傾倒する。

1967年

ジャイルス、ジャイルス&フリップ結成、そしてロンドン進出

セミプロとして活動していたリズム・セクション兄弟マイケル・ジャイルス(ds)、ピーター・ジャイルス(b)とボーンマスでジャイルス、ジャイルス&フリップ結成。当時はアコーディオン奏者ダウ・ワードも在籍。10月にはロンドン2拠点を移しライヴ活動を開始。直後にダウ・ワードが交通事故に遭い脱退。トリオ編成となる。

1968年
2月

ジャイルス、ジャイルス&フリップ(以下:GG&F)、2月DECCAと正式契約

5月にデビュー・シングル「One In A Million/Newly Weds」、9月にアルバム『The Cheerful Insanity Of Giles, Giles & Fripp』、10月に2ndシングル「Thursday Morning/Elephant Song」発売。(2ndシングルはマクドナルドが後からオーヴァーダブを加えたヴァージョンが使用された。)

6月

キング・クリムゾン初期メンバー:ロバート・フリップ、マイケル・ジャイルス、イアン・マクドナルド、ピート・シンフィールド、グレッグ・レイクが誕生

メロディ・メーカー紙にジュディ・ダイブルが出したメンバー募集広告を見たピーター・ジャイルスが交渉の結果、ダイブルとそのボーイフレンドだったイアン・マクドナルドが加入。マクドナルドの友人だったピート・シンフィールドが作詞兼ローディで参加。ダイブルは短期間で脱退。11月にバンドのヴォーカル強化を図るべく、フリップはグレッグ・レイクを引き入れる。これによりベーシスト間の軋轢が生じ、ピーター・ジャイルスは脱退。

1969年
1月

バンド名をキング・クリムゾンに改めデビュー

ピート・シンフィールドの書いた歌詞より命名。この時期、マクドナルドの伯父の援助でメロトロンを購入。またEGマネージメントと契約を交わし、4月9日ロンドン、スピークイージーで公式にデビュー。

7月5日

ロンドン、ハイド・パークに於けるローリング・ストーンズ、ブライアン・ジョーンズ追悼公演にサポート・アクトとして出演。翌、6日にはマーキー・クラブにも出演

10月10日

デビュー・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』発表

6月よりレコーディングが開始され制作された。同時期首位を独走していたザ・ビートルズ『アビー・ロード』を首位から引きずり下ろしたという一種の都市伝説も生まれた。

11月

発表に合わせたイギリス国内〜アメリカに至るツアー開始

12月

イアン・マクドナルドとマイケル・ジャイルス脱退を表明。またグレッグ・レイクもキース・エマーソンと意気投合。エマーソン、レイク&パーマー結成へ向う

1970年
5月15日

セカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』発表

前年のUSツアー時にオリジナル・ラインナップは崩壊したが、EGとの契約消化のためマクドナルド以外のメンバー+ピーター・ジャイルス、キース・ティペット、メル・コリンズ、ゴードン・ハスケルらをゲストに招き、1月よりアルバム制作を開始した。

12月11日

3rdアルバム『リザード』発表

既に脱退したマクドナルドとマイケル・ジャイルスのデュオ、マクドナルド&ジャイルスが5月よりレコーディング開始。8月にはフリップ、シンフィールド、コリンズ、ハスケル+ドラム:アンドリュー・マカロックと前作同様キース・ティペットらジャズ・ミュージシャンをゲストに迎えアルバム制作開始。発売後ツアーのリハーサルを開始するも3日で崩壊。

1971年
1月3日

アルバム『マクドナルド&ジャイルス』発表

初頭

そして、3人が残った

フリップ、シンフィールド、コリンズの3人が残ったクリムゾンはメンバー探しを敢行。ドラムスにイアン・ウォーラスがまず決定するもヴォーカル探しに難航。

早春

フリー・ジャズ3部作始動

キース・ティペットの要請でフリップ、英国ジャズ界の若手ミュージシャンが一堂に会した大セッション・ユニット、センティピード(=ムカデ)のプロデューサーを担当。この作品を皮切りにフリップはキース・ティペット・グループの『ブルー・プリント』、『オーヴァリー・ロッジ』とフリー・ジャズ3部作にプロデューサーとして関わる。

3月

ボズ・バレル加入

センティピードのレコーディングを通じて知りあったボズ・バレルをヴォーカリストに、ベーシストにリック・ケンプを迎えるも、ケンプ3日で脱走。ボズ・バレル、ヴォーカル兼ベーシストとなる

4月12日

‘69年12月以来のライヴ、遂に再開!

ドイツのズーム・クラブで『アイランズ』クリムゾン、デビュー。その後、英国ツアーを行う。

10月

アルバム『ISLANDS』制作開始

国内ツアーを行い収録楽曲をライヴでリハーサルしながら準備を進め遂にレコーディング開始。今回もキース・ティペット・グループのメンバーがピアノ、ホーンで参加。

11月

解散への道。北米ツアースタート!

北米ツアー開始。メンバー間の確執が表面化。フリップ、シンフィールド組対バレル、コリンズ、ウォーラス組の対立からフリップ対シンフィールドの対立に発展。

12月3日

アルバム『ISLANDS』発表

12月後半

ピート・シンフィールド解雇

’71年度北米ツアー終了。修復不可能となったフリップ、シンフィールドの関係を清算すべく、フリップ、シンフィールドを解雇。オリジナル・メンバーは遂にフリップ一人となった。またフリップはクリムゾン解散を決意。

1972年
2月〜3月

仕方なしにツアーは続く

解散を決めたものの、既にEGが第2回目の北米ツアーをブックしていたため、予定消化のためシンフィールド抜きの4人でツアーに出る。同時にフリップは解散後に再始動させる新生クリムゾンの構想をまとめ始める。

3月末

キング・クリムゾン遂に解散!

第2回北米ツアー終了とともにキング・クリムゾン消滅。フリップ以外のメンバーはそのままアメリカに残りロック、ブルース三昧のセッションを繰り返す。

6月9日

ライヴ・アルバム『アースバウンド』発表

キング・クリムゾン初の公式ライヴ・アルバム『アースバウンド』発売。2月11日デラウェア、2月26日フロリダ州ジャクソンズビル、27日オーランド、3月10日イリノイ州ペオリア公演をPA卓に直結したカセット・レコーダーで録音した劣悪音質の作品故、当時はイギリス以外発売されず。しかも廉価版で現在の貨幣価値でいえば¥1000以下の低価格で販売された。

4月

ロバート・フリップ帰国。次世代クリムゾン発足の準備本格化!

フリップ、白魔女ウォリ(ワリ)・エルムラークを伴い帰国。彼女のソロ・アルバム制作をサポートするとの報道流れる。一方、水面下で話し合いが進められていた新生クリムゾン始動へ向けての活動が本格化。夏にかけて精力的に動き回る。

1972年
7月22日

クリムゾン復活

音楽新聞『メロディ・メーカー』紙がトップでYESを脱退したビル・ブルーフォード(ds)がクリムゾンに加入することを報道。ファミリーから引き抜いたジョン・ウェットン(b,vo)、英国フリー・インプロヴィゼイション界の重鎮、デレク・ベイリーがエヴァン・パーカーらと主宰していたM.I.C.(ザ・ミュージック・インプロヴィゼイション・カンパニー)に参加していたパーカッショニスト、ジェイミー・ミューア、ヴァイオリン、キーボード担当のデイヴィッド・クロスの5人編成で復活。以下1974年解散まで便宜上『太陽と戦慄クリムゾン』とする。

9月

フリップ&イーノ

ロキシー・ミュージックを追い出されたブライアン・イーノとロバート・フリップが意気投合。イーノ宅への訪問をきっかけに、エクスペリメンタル・ミュージック史にその名を残すデュオ、フリップ&イーノの活動が始まる。

10月13日

太陽と戦慄クリムゾン始動

アイランズ・クリムゾン同様、ドイツのズーム・クラブからライヴ活動を開始。12月15日ポーツマス、ギルド・ホールまで32公演とドイツの音楽番組『ビート・クラブ』収録のためのスタジオ・ライヴを行う。

1973年
1月〜2月

ロンドン、コマンド・スタジオにてアルバム『太陽と戦慄』のレコーディング開始

前年10月から12月までのツアーで披露された新曲のレコーディングを開始。前作までピート・シンフィールドが担当していた作詞は、ジョン・ウェットンの友人、リチャード・パーマー・ジェームズが担当。レコーディングは断続的に続き、レコーディングの合間にもマーキーで公演を行った。

2月11日

ジェイミー・ミューア突然の脱退、4人編成のクリムゾンとなる

レコーディングの最終盤、クリムゾンはマーキー・クラブにて2公演を行うが、ロバートの弁によれば、ミューアは2回目の公演に現れず、マネージメントは足の捻挫とロバートに伝えたが、この時点でミューアは脱退

早春

ピート・シンフィールドのソロ・アルバム『スティル』発表

1972年10月から1973年1月にかけてコマンド・スタジオでレコーディングされたシンフィールド初のソロ・アルバムがEL&Pが設立したマンティコア・レーベルから発売。グレッグ・レイク、ボズ・バレル、イアン・ウォーラス、メル・コリンズ、ジョン・ウェットンら参加。要するにフリップ以外ほとんどのクリムゾン関係者がレコーディングに参加した。

3月16日

『太陽と戦慄』発表に合わせた第一期ヨーロッパ・ツアー開始

3月16日グラスゴー、グリーンズ・プレイハウス公演を皮切りに4月9日パリ、オランピア公演まで英9公演、仏・独・蘭他9公演の計18公演を行う。

3月23日

アルバム『太陽と戦慄』発表

イギリスの於けるチャート最高位は20位。アメリカでは60位を記録。

4月18日

第一期北米・ツアー開始

オハイオ州ウォーレン、パッカード・ホールから『太陽と戦慄クリムゾン』初のアメリカ・カナダ・ツアーが始まる。7月2日オハイオ州ケント州立大学公演まで全44公演。

9月19日

第二期北米・ツアーから始まる死のロード! (阪神かい!)43連発

カナダ、ケベック州ル・キャピトーレ・シアターより第二期北米ツアー開始。10月15日カリフォルニア州サンタモニカ・シヴィック・オーディトリアム公演まで全19公演。そのまま10月23日グラスゴー、アポロ公演より第二期ヨーロッパ・ツアーに突入。11月29日スペイン、マドリッド、シネ・アルカラ公演まで24公演。これだけツアーをやっていればスタジオでアルバムを制作時間は無いに等しい。

1974年
1月17日

『暗黒の世界』制作開始!

ロンドン、エアー・スタジオで『暗黒の世界』レコーディング始まる。「偉大なる詐欺師」、「人々の嘆き」、「夜を支配する人」のヴォーカル部分の録音とライヴ音源の選別作業が行われ、ベーシックな作業は3日で終了。この後、ライヴ音源から歓声等のノイズを取り去る作業が行われる。(2014年発表の『ラディカル・アクション〜ライヴ・イン・ジャパン+モア』でこの手法は復活)

3月7,8,11,12日

『暗黒の世界』ツアー・リハーサル、名曲「スターレス」誕生!

リッチモンドにて4日間のツアー・リハーサル開始。開始早々、ウェットンはアコースティック・ギターで後に「スターレス」となる曲のヴォーカル部分を披露するも他のメンバーの反応は無し。ウェットンはスルーされたと思い落胆するもリハーサル後半で残りのメンバーが楽曲を展開させるアイデアをそれぞれ持ち寄り、楽曲は纏められていった。スルーされたのではなく考える時間が必要なだけなのであった。

3月19日

太陽と戦慄クリムゾン最後のツアー始まる!

前半はヨーロッパ・ツアー。3月19日イタリア、ウーディネ、パラッツォ・デロ・スポルト公演を皮切りに4月2日ドイツ、ゴッティンゲン、シュタットハレ公演まで12公演+TV用スタジオ・ライヴ1回。そのまま4月11日メリーランド州オーウィングス・ミルズから第一期北米ツアーが始まる。5月5日デトロイト、フォード・オーディトリアムまで全17公演。

3月29日

アルバム『暗黒の世界』発表

全英アルバム・チャートでは太陽と前作の協調を維持し28位を記録。アメリカではビルボード誌で68位。ライヴ音源は’73年10月23日グラスゴー、アポロ公演、11月15日スイス、チューリッヒ、フォルクスハウス公演、11月23日オランダ、アムステルダム、コンセルトヘボウ公演のものが採用された。

6月4日

『レッド』への道、第二期北米ツアー開始!

テネシー州ナッシュヴィル、ミュニシパル・オーディトリアウムから始まり7月1日ニューヨーク、セントラル・パーク公演まで全21公演。ジョン・ウェットンの大音量化に引き摺られ、爆音化が急激に促進される。これに伴い最もデリケートなアコースティック楽器ヴァイオリン担当のデイヴィッド・クロスのストレスが増大。バンド間に亀裂が入る。最終的にはクロスの解雇に発展。クロスはツアー終了とともに解雇されるがその解雇通達はアルバム『レッド』制作開始直前まで本人には知らされなかったため、その後長年に渡り遺恨を残すことになる。

7月〜8月

太陽と戦慄クリムゾン最終作『レッド』制作

ヘヴィ・メタリック爆音ツアー終了直後、ロンドンに戻りオリンピック・スタジオにて制作開始。爆音ツアー中にライヴで演奏しながら形作った作品だけに太陽と戦慄クリムゾン3作中最もストレートでロック色が強い作品。ゲストとしてオリジナル・メンバー、イアン・マクドナルド(alt sax)、元メンバー、メル・コリンズ(soprano sax)、他数名のホーン奏者が参加。

9月19日

オリジナル・メンバー、イアン・マクドナルドの復帰が示唆される

解雇したデイヴィッド・クロスの後任としてイアン・マクドナルドの復帰の可能性がフリップから語られ、音楽紙に掲載される。これは、脱退を考えるフリップがクリムゾン存続のためには、オリジナル・メンバーの復帰が必要と考えたため。フリップ本人はこの時点で既に脱退を決意していた。

9月28日

急転直下! 活動休止を発表!

アルバム『レッド』発売直前にキング・クリムゾンの活動休止が発表される。

10月

アルバム『レッド』発表

『宮殿』、『太陽と戦慄』と並ぶ人気作発売。現在も演奏される「レッド」、「再び赤い悪夢」、「スターレス」と人気曲を収録。唯一「神の導き」のみ1974年6月30日ロードアイランド州プロヴィデンス公演に於けるライヴ・トラック。全英アルバム・チャート最高位45位、アメリカではビルボード・チャート66位を記録。

1975年

ライヴ・アルバム『USA』ポスト・プロダクション開始

オリンピック・スタジオにて1974年6月28日アズベリー・パーク公演をメインとし一部6月30日プロヴィデンス公演の音源が使用された。制作の中心はフリップとウェットン。デイヴィッド・クロスのパート差し替えはロキシー・ミュージックのツアーでウェットンと一緒だったエディ・ジョブソンが担当した。

5月

ライヴ・アルバム『USA』発表

マネージメントが期待した割にはチャートは振るわず、ビルボード・アルバム・チャート最高位125位に終わる。

1977年頃

次世代型キング・クリムゾン、UK結成に向けての水面下の動き

1976年にパンク・ムーヴメントが勃発してから、クリムゾンが所属していたEGマネージメントはオールド・ウェーヴのアーティストを抱えるマネージメントとしてゆっくりと地盤沈下していく。パンク以降も支持を受けたのはロキシー・ミュージックくらい。そのロキシーも活動停止となり、EGは’70年台後半を乗り切るための大玉として、『レッド』制作時の3人にエディ・ジョブソンを加えたラインナップをUKという名でデビューさせようと画策。しかし、フリップはこの誘いに一切応じず、NYで唯我独尊の活動を展開する。今更、’70年代クリムゾンの活動をなぞっても仕方がないというのが、NYを中心とした活動から見て取れる。

1980年
11月23日

フリップ、第一線への復帰を決心。クリムゾン復活へ始動する

ザ・リーグ・オブ・ジェントルメンのドラマー、ジョニー・トゥーバッドを素行不良で解雇すると同時に、シーンの第一線で活動するバンドへ復帰する欲求が強く芽生える。直後にエイドリアン・ブリューとビル・ブルーフォードと連絡を取りバンド結成を打診する。

1981年
2月

NYにてベーシストのオーディションを行う

候補者をリハーサル。米ポリドールの紹介でトニー・レヴィンがオーディションにやって来る。全員、彼が適任と考える。多忙なプレイヤーだったが、クリムゾンのメンバーとプレイする魅力に屈しバンドに加入。クリムゾン史上初の英・米混合ラインナップとなる。

3月

リハーサル開始

イングランド、ウィンボーンにてこの時点ではディシプリンと呼ばれていたバンドのリハーサルが始まる。

4月30日

バースのクラブ『モールズ』にてディシプリン、デビュー

ザ・リーグ・オブ・ジェントルメンも最初のライヴを行ったバースのモールズにてデビュー・ギグを行う。この後、リハーサルも兼ねた短期のUKツアーを行い、レコーディングに臨む。

5月

『ディシプリン』レコーディング開始

ロンドン、アイランド・スタジオにてアルバム制作開始。プロデューサーはレット・デイヴィス。

9月22日

アルバム『ディシプリン』発表

‘80年代の空気の中復活したクリムゾンの新作は従来のファンばかりでなく、ニュー・ウェーヴ一辺倒のオーディエンスも惹きつけ、全英アルバム・チャート最高位41位、アメリカでもビルボード・チャート45位を記録。

10月5日

ヨーロッパ・ツアー開始

ディシプリン名義のウォーム・アップ・ツアー同様、バースのモールズからツアー開始。10月19日ドイツ、オッフェンバッハまで12公演+TV収録用のスタジオ・ライヴ1本を行う。

10月22日

北米ツアー開始

カナダ、トロント、エル・モカンボより北米ツアー開始。12月1日バンクーバー、コモドア・ボールルーム公演まで全33公演+TV収録用のスタジオ・ライヴ1本を行う。

12月9日

初のジャパン・ツアー始まる

1969年のデビュー以来初となるジャパン・ツアーがスタート。招聘は音楽舎。12月9日東京・渋谷公会堂を皮切りに12月18日浅草・国際劇場公演まで全9公演。

1982年
2月

アルバム制作に向けたリハーサル開始

『ディシプリン』の好況を受け早くも新作制作に向けたリハーサルを開始。しかし、前年のほぼ不休の活動が祟り、新曲のストックは前年のツアーでも演奏された『ニール・アンド・ジャック・アンド・ミー』をはじめ数えるほどしかなく。曲作りを一からスタートさせることとなり、特にブリューには負荷がかかる。

3月

素材不足のまま『ビート』レコーディング開始

NYからロンドンに移り、オデッセイ・スタジオでレコーディング。プロデューサーは前作同様レット・デイヴィス。アルバム制作をめぐりフリップとブリューが対立。素材不足はセッションから生まれた「レクイエム」によって回避されたが、あまり良い思い出にはなっていない1枚となった。

6月18日

アルバム『ビート』発表

レコーディングは難産だったが、全英アルバム・チャート最高位39位、アメリカではビルボード・アルバム・チャート52位を記録。

7月26日

北米ツアー開始

コネチカット州ニューヘイヴン、トーズ・プレイス公演を皮切りに8月13日カリフォルニア州バークレー、グリーク・シアター公演まで14公演。

8月20日

ヨーロッパ・ツアー開始

ポルトガル、リスボンを皮切りに9月29日西ドイツ(当時)ミュンヘン、アラバマハレ公演まで20公演を行いこの年のクリムゾンとしての活動を終了。

1983年

ライヴ活動封印ソロ活動の一年

『ビート』制作時のバンド間の確執もあり、1982年後半から83年はクリムゾンとしての活動は行わず、各メンバーがソロ活動を展開。フリップは旧友であり、ポリスのギタリストのアンディ・サマーズとアルバムを制作。ブルーフォードは当時ムーディ・ブルースに在籍していたパトリック・モラーツとデュオを組み、ブリューはソロ活動に専念。トニー・レヴィンはピーター・ゲイブリエルのバンドで活動。一方で『ビート』に続くニュー・アルバムの準備も断続的に進められた。

1月

曲作りのため再集結

イリノイ州シャンペーン郡アーバナにてリハーサル開始するも作業は捗らず、アイデアを出し合う程度に終わる。一旦、中断したリハーサルは5月にイギリス、ドーセットのパークストーンに場所を移し再開する。

6月

レコーディング第一期開始

ロンドン、マーカス・スタジオにて見切り発車でレコーディング・スタート。同時期、同じスタジオでイエスもレコーディングを行っていた。このレコーディングから生まれたのが『90125』だった。ドーセットのトニー・アーノルドのスタジオも使用された模様。

9月

フリップ、シャンペーンを再訪

シャンペーンのブリューのスタジオを訪れたフリップは1月にアイデアを出し合ったままで終わったセッションのマテリアルから共同で曲作りを進める。

11月

レコーディング第二期開始

ニューヨーク州、ウッドストック、ベアズヴィル・スタジオにて第二期レコーディング開始。一年を通じて断片的に行われたレコーディングはようやく終了。『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』完成。

1984年
3月27日

アルバム『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』発表

全英アルバム・チャート最高位30位。アメリカではビルボード・アルバム・チャート最高位58位を記録。イギリスでTOP30入りを果たしたのは1974年の『暗黒の世界』以来の好成績となった。

4月

アメリカでのウォーム・アップ3公演の後、二度目のジャパン・ツアー決行

4月18日ミズーリ州セント・ルイスのワシントン大学からウォーム・アップ3公演をこなし、4月28日五反田、メルパルク公演から二度目のジャパン・ツアーがスタート。5月11日名古屋市公会堂公演まで前回を上回る10公演を行った。

5月30日

‘80年代クリムゾン、最後の北米ツアー開始

カナダ、バンクーバー、クィーン・エリザベス・シアター公演を皮切りに、7月11日モントリオール、ル・スペクトラム公演に至る全25公演の北米ツアー開始。7月11日の最終公演は後にライヴ・アルバム『アブセント・ラヴァー』(2016年発売のボックス『オン(アンド・オフ)・ザ・ロード』にも収録)として発表される。

7月12日

フリップからメンバーにクリムゾン解散が伝えられる

バンクーバーの最終公演の翌朝、朝食をともにしていたメンバーにフリップから解散が伝えられる。太陽と戦慄クリムゾン同様、3枚のスタジオ・アルバムを残しての解散であった。

1991年
後半

フリップ、デイヴィッド・シルヴィアンにクリムゾン加入を打診

この年の後半、フリップはシルヴィアンに再結成クリムゾンのヴォーカリストとして参加を要請。シルヴィアンは丁重に断ったがこれをきっかけにシルヴィアン/フリップが誕生する。

1993年
通年

クリムゾン再結成の噂が広まる

1984年の解散以来、何度となく噂された再結成話が信憑性を帯びてくる。フリップがシルヴィアン/フリップでの活動で表舞台に登場してきたことで、その傾向はさらに加速する。

6月5日

シルヴィアン/フリップ、アルバム『ファースト・デイ』発表

前年末から制作されていたアルバムが発表される。リズム・セクションは後にクリムゾンに加入するトレイ・ガンとジェリー・マロッタ。現在のザ・セキュリティ・プロジェクトのふたりが担当。この年の終わりにはツアーも行なわれ、翌年後半ライヴ・アルバム『ダメージ』として発表される。

1994年
5月

キング・クリムゾン復活! レコーディングを始める

ダブル・トリオ編成のクリムゾンが活動開始。ニューヨーク州ウッドストックのアップルヘッド・スタジオでミニ・アルバム『VROOOM』のレコーディングが行われる。

9月28日

“ダブル・トリオ”クリムゾン初の南米上陸

この日のアルゼンチン、ブエノスアイレス公演から全15公演の南米ツアーがスタート。

10月24日

アルバム『スラック』制作開始

南米ツアー後イギリスに移動。リアル・ワールド・スタジオ他いくつかのスタジオ使い12月4日までレコーディングを行う。

10月31日

ミニ・アルバム『VROOOM』発表

6曲入りミニ・アルバムとしてこの日イギリスで発売される。アメリカ発売は12月1日。

1995年
4月3日

アルバム『スラック』発表

1984年『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』以来のフル・アルバム発売。全英アルバム・チャート最高位58位を記録。アメリカでは83位。

5月1日

初のロイヤル・アルバート・ホール公演を含むヨーロッパ・ツアー開始

オーストリアから5月17、18日のロンドン、ロイヤル・アルバート・ホール公演に至る全13公演を行う。

5月26日

第一期北米ツアー、スタート

ニューヨーク州バッファローを皮切りに7月1日ロサンゼルス、ウィルターン・シアターに至る全28公演の北米ツアーを行う。

10月1日

日本および第二期北米ツアー

‘84年以来となる3度目のジャパン・ツアーがこの日神奈川県民ホール公演から始まる。10月14日新宿厚生年金会館大ホールまで計11公演。バンドはそのままアメリカに移動し、10月20日カリフォルニア州バークレーから11月29日イリノイ州ローズモントに至る計24公演の第二期北米ツアーを行う。

1996年
5月28日

バンド史初のアルバム・プロモーションを伴わないヨーロッパ&北米ツアーが始まる

従来のクリムゾン・コンサート・ツアーはアルバム発売に合わせたものであったが、この年、バンド史上初のニュー・アルバムの話題に頼らない大規模なツアーを決行。5月28日フランスを皮切りに7月24日ロンドン、シェパーズ・ブッシュ・エンパイア公演まで26回のヨーロッパ公演を行い、休みを取らずにそのまま7月26日ラスベガス、ハード・ロック・ホテルから8月26日フィラデルフィア、マン・ミュージック・センターまで全24公演におよぶ北米ツアーを行った。このツアーではメキシコでのコンサートも実現している。

1997年
11月

プロジェクト構想実現へ

ミニ・アルバム『VROOOM』、アルバム『スラック』でダブル・トリオとして復活を果たしたクリムゾンは特に興行面で大きな成功を収めたが、6人編成のバンドはそれ自体が柔軟な活動には不向きで、それぞれがソロやセッション・マンとして成功を収めていた多忙なミュージシャンの集まりだった。フリップは、よりコンパクトで次世代クリムゾンのラインナップを模索することとインプロヴィゼーションの可能性を追求するため、フリップに何人かのメンバーを加えた複数の組み合わせを実験的に始動させる構想を持っていたが、その構想がプロジェクツ(ProjeKcts)としてスタート。2000年まで断続的に続いた。

2000年
5月19日

ブリューの地元ナッシュビルにてウォーム・アップ・ギグ3公演行う

ツアー・リハーサルをナッシュビルで行い、地元のクラブ12th&ポーターにて3日間ウォーム・アップ・ギグを行う。

5月23日

アルバム『コンストラクション・オブ・ア・ライト』発表

プロジェクツ活動を経て、1998年に脱退したビル・ブルーフォード、セッション・ワークが多忙でスケジュールを押さえ難いトニー・レヴィンが外れ、フリップ、ブリュー、ガン、マステロットの4人によるクリムゾンで制作したアルバムがリリースされる。フリップ以外は全員アメリカ人によるクリムゾンが誕生する。全英アルバム・チャートでは129位、アメリカは200位圏内に入らず終わる。

5月27日

ヨーロッパ・ツアー開始

デンマーク、コペンハーゲンを皮切りに7月3日ロンドン、シェパーズ・ブッシュ・エンパイアーに至る全23公演。

10月2日

日本および第一期北米ツアー開始

4度目のジャパン・ツアーがお台場トリビュート・トゥ・ラヴ・ジェネレーションからスタート。10月16日中野サンプラザ公演まで11公演。そのままアメリカ西海岸に移動10月19日サンフランシスコ、フィルモア公演から11月24日トロント公演まで28公演を行う。

2001年
6月14日

2001年ツアーのためのウォーム・アップ・ギグを行う

前年同様ナッシュビルにてウォーム・アップ・ギグを4日間行う。この後、ツアー開始まで日にちが開いているのは、既にこの時から次作のレコーディング・セッションが開始されていたため。

7月23日

第二期北米ツアー開始

オハイオ州シンシナティから8月19日メキシコ・シティまで21公演が行われた。

11月

ミニ・アルバム『レベル5』発表

次作アルバムに向けて制作が開始され、ツアーでも演奏されていた新曲とプロジェクツ活動時のマテリアルを加えた作品を発表。発売の背景には海賊盤CDの横行、インターネットの普及で音楽データ・ファイルが簡単に取り引きされるようになり、こうした違法行為に対する対抗策という側面もあった。

11月9日

第三期北米ツアー開始

ナッシュビル、328パフォーマンス・ホール公演から12月14日ニューヨーク、ビーコン・シアター公演まで27公演が行われた。

2002年
10月8日

制作中のニュー・アルバムからの先行EP『Happy With What You Have To Be Happy With』発表

翌年発売のニュー・アルバムから先行して9トラック入りのEP発売。タイトル曲は別テイク。また、同様に次作に収録される「アイズ・ワイド・オープン」はアコースティック・ヴァージョンで収録。また、「太陽と戦慄 パートIV」の収録も話題となった。

2003年
1月

アルバム『パワー・トゥ・ビリーヴ』発表

イギリスでの発売は3月。日本盤は先行して発売された。英国アルバム・チャートは最高位162位、アメリカでは150位。

2月28日

第一期北米ツアー開始

ニューコネチカット州アッシュビルから3月30日カリフォルニア州アナハイムまで22公演。

4月12日

5度目のジャパン・ツアー開始

長野県松本文化会館中ホールから4月21日大阪厚生年金会館まで計8公演。

6月14日

ヨーロッパ・ツアー開始

6月4日ノルウェイ、オスロから始まり、7月15日ハンガリー、ブダペストまで計29公演。後半にはクリムゾンとしては珍しい、モントルー・ジャズ・フェスティヴァル、ノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルなどのフェス出演が含まれていた。

10月27日

第二期北米ツアー開始。ツアー終了とともにトレイ・ガン脱退

アリゾナ州フェニックス、オルフェウム・シアターから11月9日メキシコ・シティ公演まで15公演。最終公演メキシコ・シティを最後にトレイ・ガンが表向きソロ活動に専念するためという理由で脱退。

年末

トニー・レヴィン、クリムゾンに復帰

脱退したガンの後任としてトニー・レヴィンが即座に復帰。ガンの脱退は急なことではなく、水面下でフリップとレヴィンは連絡を取り合っていたようだ。

2004年
前半

トニー・レヴィンとリハーサル開始

年が明けるとトニー・レヴィンが復帰したクリムゾンはリハーサルを開始するが、このセッションはうまく機能せず、フリップはツアーも今後のレコーディングもいったん白紙に戻す決断を下す。クリムゾンは再び休養期に入る。

2008年
8月3日

40周年記念ツアー? 始まる

フリップ、ブリュー、レヴィン、マステロットのラインナップにセカンド・ドラマーとしてポーキュパイン・ツリーのギャヴィン・ハリソンの加入。ナッシュビルのベルコート・シアターを皮切りに8月17日ニューヨーク、タイムズ・スクエアのノキア・シアターまで全10公演が行われる。この2008年ツアーは翌2009年のバンド・デビュー40周年に合わせたツアーのための試運転的な意味合いがあったが、翌年はメンバーのスケジュールが合わず実現せず。

2010年
12月

フリップ、実質的にクリムゾン消滅を示唆

当時のディシプリンとのやりとり等からも、フリップを取り巻く環境はメンバーとの関係、ビジネス面ともにあまり良い状態にはなかったように思う。そんな中、この時期、フリップは日記の中で「クリムゾンのスイッチはオフ」と言明。衝撃が走る。

2011年
5月30日

キング・クリムゾン・プロジェクト『ア・スケアシティ・オブ・ミラクルズ』発表

数年前から急速にフリップとの関係が密接なものになっていたジャッコ・ジャクスジクと旧友メル・コリンズと進めていたジャクスジク、フリップ&コリンズにリズム・セクションとしてトニー・レヴィンとギャヴィン・ハリソンが参加したもの。’90年代末のプロジェクト活動同様、次世代クリムゾンへの布石として注目を集めたが、いまひとつ盛り上がりに欠けるリリースとなった。

2012年
8月

ロバート・フリップ音楽業界からの引退表明を発表

ユニバーサル・ミュージックとの出版権をめぐる法廷闘争等、フリップを取り巻くビジネス面での軋轢、前年発表したキング・クリムゾン・プロジェクトが思ったほどの成果を上げられなかったこともあり、この時期フリップは現実に対し悲観的になっていたこともあるが、この引退表明には世界中のファンが2010年12月以上の衝撃を受けたことは間違いない。

2013年
前半

デイヴィッド・シングルトン、DGM版21センチュリー・スキッツォイド・バンドを画策

フリップが稼働しないとなれば、カタログ・レーベルとなってしまう危機感を抱いたDGMの共同経営者デイヴィッド・シングルトンはフリップ抜きのクリムゾン・トリビュート・バンドを計画。メンバーへの打診を開始。

9月

フリップ本人も参加を表明、前代未聞の7人編成キング・クリムゾン誕生!

「昔の曲を演奏するバンドに興味は示さないだろう」と考えていたシングルトン。フリップに構想を話すと本人も参加を表明。あっという間に話は進み蓋を開けてみればバンド史上最多となる7人クリムゾンが誕生。ダブル・トリオ時代ですら大変な苦労をしたシングルトンは「やめときゃ、よかった」と思ったことだろう。

2014年
9月8日

ジ・エレメント・オブ・キング・クリムゾン・ツアー開始

イギリスでリハーサルを行った後、ニューヨーク州アルバニー、ハート・シアターにてこの日ドレス・リハーサルを行った後、10月6日シアトル、ムーア・シアターまで20回のショウを行う。9月30日、10月1日のロサンゼルス、オルフェウム・シアター公演は2015年に7曲入りEP『ライヴ・アット・オルフェウム』として発売された。

 
2015年
8月29日

ジ・エレメント・オブ・キング・クリムゾン・ツアー2015開始

2014年はアメリカ・ツアーであったが、2015年は規模も拡大。半ばウォーム・アップであったこの日を含め、イングランド、ウェールズ、スコットランド14公演を回り、パリ3公演、オランダ2公演からなる英・仏・蘭ツアー、11月12日ケベック・シティから始まり11月29日ビクトリアまでのカナダ・ツアー、12月7日東京・渋谷オーチャード・ホールから12月21日名古屋センチュリー・ホールまでの6度目のジャパン・ツアーと3パートで構成されていた。

2016年
3月

『ライヴ・イン・トロント』発表

2015年ツアーからカナダ、トロント公演がコレクターズ・クラブの特別版として発売される。2015年ツアーからの海賊盤や不法ダウンロード、ファイル交換が横行したため、それに対する対抗策として臨発された。

8月末

『ラディカル・アクション〜ライヴ・イン・ジャパン+モア』発表

キング・クリムゾンとしては2003年の『パワー・トゥ・ビリーヴ』以来となる、コンサート会場という巨大スタジオを使った一発録り作品が発売。CDとDVD、BDのセットで2015年ツアーで演奏されたナンバーを網羅した作品。全体のベースになったのは2015年12月19日の高松サンポート公演だったため、当初の仮タイトルは『高松』であった。ツアーで演奏された全曲を収録ということで、高松公演がベースながら、東京、パリ他数公演の音源も使用されている。

9月3日

ジ・エレメント・オブ・キング・クリムゾン・ツアー2016開始

イングランド、アイルスバリーを皮切りに東欧圏も含み、12月4日パリ公演に至る全42公演。2014、2015年のツアーでドラム・トリオの一角を担当していたビル・リーフリンが休養中のためノエル・ギャラガーのバンド等に在籍していたジェレミー・ステイシーが新たに参加。また、1972年以来演奏されたことのなかったアルバム『リザード』からのナンバーも演奏されるようになった。

2017年

ジ・エレメント・オブ・キング・クリムゾン・ツアー2017予定

サマー・シーズンに北米の野外会場を回る計画がある模様。詳細は未定であるが、ビル・リーフリンの復帰もあるかもしれない、という。シングルトン曰く「8人クリムゾンになったらどうするのだろう…」。ロバート・フリップの心が折れない限り、『ジ・エレメント・オブ・キング・クリムゾン・ツアー』は続く。

 

文:深民淳

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